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2014/12/27

2014日本島根(4-6)六所神社


原本以為此次的行程在足立美術館畫上句點。沒想到熱心親切的司機堅持再帶我們去六所神社,只是天已經黑了,整個神社黑壓壓一片,進去有點困難,司機先生還特地開車頭大燈,為我們照路,真是令人感謝萬分,神社內留有一盞螢螢小燈,我們虔敬的參拜後,便離開了。可惜已經晚上了,否則定要好好的停留欣賞一番。
因為還要打包行李。晚上便在飯店用餐,明早清晨便要前往廣島機場搭機。

註:隔天趕往機場途中,已下起靄靄白雪來,就在一片雪白中,我們離開日本,結束我們此次的「風雨雷電雪」之旅。

 
六所神社(ろくしょじんじゃ)は島根県松江市大草町にある神社である。意宇六社の一つ。出雲国総社であり、旧社格は県社。出雲国府の跡地に鎮座している。
境内の北側に1968年に発掘された出雲国府の遺跡があり、境内の東側の隣接地に
国庁の正殿の遺構の一部がある。鎮座地が国庁と重なることから、別の場所にあったものが移転したと考えられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%89%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E5%B8%82)
式内社:出雲國意宇郡 佐久佐神社

出雲國総社
旧県社
御祭神:

伊邪那岐命 天照皇大神 月夜見命 伊邪那美命 素盞鳴尊命 大己貴命
出雲国府跡にある。出雲国総社。
意宇六社の一社。意宇六社とは、

神魂熊野揖夜真名井八重垣六所神社
当社は六柱の神を祀るが、「六所」は六柱の神ではなく、「録所」つまり神社の管理・統括する社であるとする説もあり、各地に「六所」と称される総社が存在する。
社伝によると、当社は元、佐久佐神社といい、式内社・佐久佐神社であるという。
よって、かつての主祭神は
青幡佐久佐彦命であったという。
中世になって、青幡佐久佐彦命は境内社・丁明神社に祀られるようになったらしい。
陰暦十月の神有月には、全国の神々が、まず当社に集い、その後、
佐太神社へ移られるという。
国府総社
 この神社は国府の総社と呼ばれ、古文書にもしばしば登場します。総社とは国司が出雲国内の神々を合せ祭るなど、国内の神社を統括する機能を持っていました。
 当時は国庁の隣接地にあったと考えられていますが、平安時代以降に国府が衰退していくと、神社はかつての中心地に移転し、この地区の氏神として信仰され現代に至っています。
御当社はもと佐久佐の社といい「延喜式」(延長2年927)の神名帳にも「出雲風土記」(天平5年733)にも記載されている由緒の古い神社である。出雲風土記の載っている意宇郡大草郷(今の松江市大庭町、佐草町、大草町、八束郡八雲村)内の神社は八社で、当社の外の七社は熊野大社を始め皆八雲村内の神社である。これらの神社は、千二百数十年前から御鎮座になっていたことは、風土記に載っていることでも明らかだが、御創建の年代は、それよりはるかに古くて知るべくもない。大化改新(大化2年646)によって氏族政治が廃止され、諸国には国庁(今の県庁にあたる役所)が置かれ、中央政府から派遣された国司によって、戸籍、班田、徴税、国防その他一般の政治が行われるようになったが、その頃から当社は出雲の総社となり、一層重きをなす様になった。総社とは、国内の総べての神社を代表する神社の意である。延喜10年、国庁の官人への宣(命令)に「国中の政は神事を先となす、専ら如在の厳典をいたし、すべからく部内の豊穰を期すべし」と見える様に、一国の政治は神事を第一にすべき旨示されている。したがって国司が任国の命をうけてその国へ行けば、神社に参拝し政道の基をたてるのが例となっていた。又、国内の神社に国から奉る幣帛を班つ班幣式も、出雲国内の神主を当社に集め、国司が属僚を率い、神祇官に準じて行い、その他祈願等も当社で行われていた。後代、佐久佐社は、総社佐久佐社、総社六所社と併称される様になった。総社で六所社と称される様になった神社は、武蔵国総社六所社(今は大国魂神社と改称)を始め全国27社に及んでいる(梅田義彦博士の調査による)「六社縁起」に「大草郷六所大名神は出雲の総社にして、雲陽第二の名社なり」とあり、朝廷を始め国守、領主、守護等の崇敬も厚く、旧暦3月5日(現4月15日)の御田饌祭には勅使の御参向があったが、観応元年(1350)2月、熊野大納言に勅代の宣旨があってからは、熊野大納言が代参して祭事を行ったことが古文書に見え、その行列図、儀式等を書いた壁画(県文化財指定)を蔵している。又、庁宣をもって数多の田地を寄せられたので、鎌倉期にあっては、灯油田、八朔幣料田、御神楽田等四町一反余りの神領が将軍や守護等の保護をうけていた。大草地頭の代官が、一時当社の社領を横領したことがあり、源為朝将軍が厳重な下知を下して地頭代官の横暴を禁じたことが北島国造家の文書にみえている。戦国時代となっては戦乱の影響をうけ、多少の変動は免れなかったが、毛利元就が出雲を領するに及び、富田城督毛利元棟は、当社の祭事を復興し、かつ社領を旧に復して国家平安の誠を捧げ、吉川元春は鳥居、神馬を寄進して報賽の誠を捧げている。松平家になってからも、当社に対する崇敬と保護には変わるところがなかった。当社の造営、修復等は、王朝時代にあっては国費をもってせられたことは申すまでもなく、鎌倉期になってからも幕府は造営料として出雲三刀屋郷、乃白郷等の年貢を寄進して工を竣えている。天文11年(1542)大内義隆当地へ侵入の時兵災にかかり、社殿等を失ったが、尼子家が造立した。松平家となってからも、造営等すべて藩の御作事方が直接工事にあたっており、遷宮祭等重要な祭儀には国守の代参があり、又出雲国造が参向する例になっている。大正14年県社に御昇格せられた時は、島根県知事を始め松平家、千家、北島両国造等御参向のもとに盛大な報告祭に併せ例祭が斎行された。出雲の豪族である国造が此の地に住み、熊野大神(今の熊野大社)に奉仕し、出雲国内の祭政一切の権を握っていたことを見ても、出雲風土記にゆう、この大草郷は、文化、経済、交通等の中心地として栄えていたことであろうし、そうした環境の地であったが故に、出雲の政治の中心となる国庁や郡家(郡役所)もここに置かれたのであろう。熊野大神に奉仕していた国造(千家、北島の祖)が、いつごろ、この地から杵築へ移住したかは明らかでないが、千家尊統前出雲大社宮司は、その著「出雲大社」で「いつ杵築へ移住したかについては国造家にもしかとした伝承はないが、解明の手がかりとなるものは「類聚三代格」巻7、郡司の条の太政官符で、慶雲3年(706)出雲国造は意宇郡大領を携帯して延暦17年(798)に及ぶとある。とするならば大領兼帯という政治的権威を失った平安初期に、意宇郡には、熊野大神を遥拝する神詞(神魂神社の前身)ならびに国造館を残して、
大国主神御鎮座の杵築へ移住したものであろう」と述べている。当社は、意宇六社(熊野大社、真名井社、揖夜社、六所社、八重垣社、神魂社)の一の宮であり、古くから六所さんとも称され崇敬されている。この意宇六社を巡拝する六社まいりと称する行事は古く明治以前から続いている。陰暦十月出雲へお集りになる全国の神々は、先ず当社へお集まりになってから佐太神社へおいでになる旨佐太社の記録にもあり、当社では18日に神在祭が行われていたが明治初期から絶えている。当社の神紋「有」もそうした意味をあらわしている。陰暦10月は神無月とゆうが、出雲では神有月といっている。これは十月は全国の神々が出雲にお集まりになるので、出雲以外の国には神様がいられないとの信仰にもとずくものであり、この神々のお集まりになる十月の二字を組みあわせると有の字になるので当社の神紋にしたものであろう。当社に参拝された清水真三郎出雲大社権宮司は「国司袖うちはへてまつりけむかみの斎庭のおもほゆるかな」と詠じられた。今、社頭に立って、色とりどりの衣冠束帯に身をととのえた国司等が、長い装束の袖をうちはえつつ、心をこめてお祭りしたであろう天平の昔におもひをいたすとき、うたた感無量である。


http://www.genbu.net/data/izumo/rokusyo_title.htm




往廣島機場途中休息站


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